【全力衝動】全力で挑み、全力で散りゆき、なお全力で生き抜くということ

全力で生きるっちゅうんは、まァ、疲れますわな。己の限界に挑む。そして、そいつを超えていく。超えられるってことは限界ではないので、「限界を押し上げる」と言ったほうが正確かもしれませんな。

私は20代の特に濃い時期を、「東方Project」の作品群とともに駆け抜けました。とりわけ、Windows版の第2作目にあたる『東方妖々夢』は、決して忘れ得ぬ作品です。

「身のうさを 思ひしらてや やみなまし そむくならひの なきよなりせは」
(我が身の苦しみを思い知らずに済んだであろうか。もし、背く習わしがこの世に無かったならば)

期待に背き、世俗に背き、仏道へ入る面でも(世に)背き……。西行法師のこの歌が、『東方妖々夢』の最終盤、西行寺幽々子さんの最終スペルカードである「反魂蝶」が発動する直前。『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』から、『ボーダーオブライフ』へと切り替わる直前に、この文言が現れる。

反語の字義どおりに、その意味は「"世に背く(仏道に入る)"ことなくして今の自分はなく、また我が身の憂い、辛さ、苦しみを知らずに済んだ道などありえなかった」。そのようにも読み取れる和歌より始まる、鮮烈にして美しい最後の弾幕は、ぜひとも同作をプレイして確かめていただきたいものです。

されば、その美しさを思い出すきっかけになったXのポストとともに、今回の記事を始めさせていただきます。

「神代れいん」さんのポスト~全力で挑むということ

個人勢VTuberグループ「エクラ*タタン」の「神代れいん」さん。彼女のポストが、私にとって"全力"を考える強い動機となりました。

全力。困難にして、美しい。

さりとて、それが最高の果実を結ぶかどうかは、決して保証されていない。

しかし、成否とは、勝敗とは、真に生きるのにあたって必要なのか。こうした人生への向きあい方へも発展しそうです。

神代れいんさんがおっしゃるとおりに、全力で何かを成すというのは、まことに大変で、同時に嬉しいと楽しいがついてくるかもしれない。そんなびっくり箱だと思っております。

ただ、その「楽しい」は「安楽」でも「快楽」でもないかもしれない……。あるいはその言語化の精髄を求めるか、または自らの求める表現手法によっていかに描きだすか、それを求める旅路こそが「現代の生命の本質」なのやもしれません。

全力で散りゆくということ

全像本朝古今列女伝/細川ガラシャ

「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

明智玉、受洗名「細川ガラシャ」で知られる彼女の辞世として知られるものです。明智光秀と細川忠興、さらにはキリスト教とその追放令、なお加うるに石田三成の誤算のひとつにして関ヶ原に影響を与えた出来事……という、日本史でも重要なポイントに浮気したいところですが、そこはひとまず置いておきましょう。

ありがたいことに、今の世の中は命を散華させるような場面は多くありません。むしろ、危うい不法行為に手を染めてしまうことによって、その危険が増すとすら言えるでしょう。

それでもなお、挑まぬ者が新しい地平を見ることはない。学ばぬ者が世界の複雑なる魅力を感得することも、また困難である。

気がつけば、もはや自分の花は次代への種子を残さず、あるいは開花の時さえ迎えぬまま、ひっそりと消えゆくのです。おお、なんたる恐怖か!

全力で得られるものとは何か

全力で得られるものとは何か

もちろん、私は努力を手放しに礼賛する気はありません。むしろ、可能な限りぐうたらに生きていたい……。根が怠惰ですから、なかなか実力が上がりませんで、多くの分野で難儀してきました。

そうは言っても、完全なる無為の人生だったかというと、「やぁ、そら違います」と答えるでしょう。とりわけ、30代の10年間は非常に痛苦に満ちた人生でした。一方で、成長の足がかりになりえる数多の学びを得たのも、この10年間だったと思うのです。

16年前の2008年。『ニコニコ動画』で「東方Project」の二次創作動画を投稿し始めたとき、私は小説家として担当編集がつくところまで行きながら、その未熟さゆえに商業出版を成し遂げることができませんでした。

妥当ではあります。ありゃあ、確かに出しても往古の名作に比べて、毛ほども面白くないと評価されたでしょう。

改稿に次ぐ改稿。それ以前も以後も公募に出し続け、落ち続けた長編も数十本ありますが、やはり10万字がさらりと「無価値」と断じられるというのは応える経験でしたねえ。

落選というのは端的に作品の否定であって人格の否定ではないわけですが、「きみが書いたのは数百万字のノイズに過ぎんのだ」と言い換えてみると、こりゃあずいぶんと残酷です。まして、私の場合は文体まで否定されたわけで、こいつが今でも尾を引いている。うん、おそらくは自分の発達障害的な要素として、「そいつは振り落としていいものだ」と思っていても、どこか捨てきれんのでしょうね。

ところが、動画はまったく知らない、セオリーもよう知らんから、好き勝手にやった。それが受け入れられる土壌もあり、何より二次創作なので、生きたキャラクターを使わせていただくことができた。

この学びを生かさねばと思いながらに幾星霜。そうです。"全力"の時が来たのです。

全力で生きる、それが私の在り方

全力で生きる、それが私の在り方

我思う、かの西行の、歌いしを。

かくたる開始点より、ここへと落着いたしました。身体の治癒できぬ病あり、精神の治癒できぬ病あり、さてもさても、結構な手札であろうと思います。しかし、スヌーピーが「持ってる手札で勝負するしかないのさ」とつぶやくよりも早く、かのアルトゥール・ショーペンハウアーがこのように申しておりました。

"Das Schicksal mischt die Karten, und wir spielen."
(運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する)

不勉強なもので、私はこれが収載されている『Parerga und Paralipomena(余録と補遺)』で実際に確かめたわけじゃござんせんが、たいそう好きなフレーズです。運命はだいぶカードを混ぜてくれたはずで、実際に私は良いカードも悪いカードも持っております。

先のとおり、生来の病は悪いカードですがね。たぶん、総合的には恵まれたカードを最初から今でも持ち合わせているのですよ。尊敬できる家族がおります。フェイバリットなクリエイターさんがいて、VTuberさんがいます。

そして、私は激烈な闘争心でもって、競う者になりたいと欲しているのです。全力で。静かなる行動をもって、裂帛の衝動を皆様に。

かようにありたいところですが、何にしても気を張りすぎるといけません。ほら、私などは持病が「心血管疾患」に直結するし、遺伝的には「くも膜下出血」のリスクが非常に高いときておりますから、自分なりの"全力"の作法をようよう守っていかねばなりますまい。

ああ、眼高手低のモラトリアムは、ついに私を追い出してくれるようです。待っているのは苛烈な戦いの荒野でしょうが、征かねばならんのです。

そこにこそ、私の喜びが待っておりますから。