【Wikipedia私家訳】「建神論(God-Building)」
《翻訳者》
真里谷
《元記事》
英語版Wikipedia「God-Building」
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建神論(God-Building)
建神論(God-Building)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
建神論(英:God-Building、露:богостроительство, bogostroitelstvo)は、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキに属する、初期の著名なマルクス主義者によって提唱された思想である。オーギュスト・コントの「人類教」に影響を受けたこの思想は、フランス革命期の「理性の祭典」に先例が求められた。
建神論は宗教の廃止に代替する手段として、宗教が持つ儀式・神話・象徴化といった心理的および社会的効果を評価し、新しい儀式と象徴を創造し、既存の儀式と象徴を社会主義の文脈で再解釈することにより、親共産主義の目的に利するメタ宗教的な文脈を提案した。レーニン主義の無神論とは対照的に、建神論者は不可知論の立場を取った。[1]
起源
アナトリー・ルナチャルスキーはボリシェヴィキのなかでも、フペリョート(前進)派に属していた。彼は十月革命後に教育人民委員に就任することになるが、当初はウラジーミル・レーニンのライバルであり、義兄弟でもあるアレクサンドル・ボグダーノフと密接に関係していた。ルナチャルスキーは2巻構成の著作『宗教と社会主義(Религия и социализм)』(1908-1911年刊行)において、建神論を提議した。
科学的社会主義はすべての宗教の中で最も宗教的であり、真の社会民主主義者はすべての人間の中で最も深遠に宗教的な存在である。[2]
ルナチャルスキーは、科学と親和する宗教の創造によって、超自然的な信仰に基づかない共産主義の世界観に適合する新しい宗教心を提唱した。
ルナチャルスキーは、伝統的な宗教は虚偽であり、搾取の目的で使用されてきたが、それでも感情、道徳的価値観、欲求、および人間社会にとって重要なその他の側面を育んできたと主張した。[3]: 20 彼は、宗教を完全に破壊するのではなく、何百万もの人々にとって心理的および道徳的基盤として役立っているものについて、共産主義的道徳に基づく積極的な人間主義的価値観へ変換されるべきだと信じていた。その思想では、神は徐々に新しい人間観へ置き換えられ、それによって社会主義は大きな成功を収めることになっていた。
ルナチャルスキー自身と彼の支持者は、マルクス主義は人間に対してあまりにも機械的かつ決定論的であり、それだけでは大衆を鼓舞することができないと主張した。さらに、象徴と儀式が社会的および心理的に必要不可欠な役割を果たすとも断言した。宗教の社会的価値について、ルナチャルスキーは次のように書いている。[1]
社会主義の視点から、プロレタリア運動が宗教組織に向ける態度は、階級闘争における立場に基づいて構築される。社会主義は、宗教運動を共通の利益、身体的、道徳的、ならびに精神的発達の観点から見るものであり、これは以下を意味する。
1. 社会主義は、客観科学と主観科学の実証的知識に基づき、宗教的迷信や偏見と戦う。
2. 社会主義は、ブルジョワジーを支持する世俗の知識人と同様に、ブルジョワジーに奉仕する宗教的知識人と戦う。
3. 社会主義は、人々に対する偏見や暴力を基本とする、戦闘的無神論とは無縁である。
4. 社会主義の自由は、すべての個人にとっての宗教の自由、ならびに真理の独立した探求も含意している。
5. 社会主義は、「神が存在する」または「神は存在しない」という命題について、教条的に固執することはできず、不可知論または「さまざまな可能性」の立場を取る。
6. 社会主義は、プロレタリアートのための闘争において、世俗的および宗教的なイデオロギー集団を団結させる。社会主義と宗教的狂信、あるいは戦闘的無神論を融合させることを目的としたいかなる行動も、プロレタリア階級を分裂させることを目的としており、「分割して統治せよ」という公式を持ち、ブルジョワ独裁の思う壺となる。
ルートヴィヒ・フォイエルバッハの「人間学宗教」[要出典]では、神は人間として崇拝されるようになるとされた。これは、個々人が崇拝されることを意味せず、むしろ人類全体の潜在能力とすべての業績が崇拝の対象となることを意味する。人間的な価値観を天に投影し、自身の幻想的な創造物に服従することをせず、人類全体が同じ価値観を崇拝し、これらを集合的に所有することになる。この宗教は、人々が自分自身を価値ある存在として認識し、自分自身に共通の目的や共同体意識、普遍的な意味を見出すことを促すものであった。[要出典]
ルナチャルスキーらはまた、リヒャルト・アヴェナリウスの自然的世界概念(Der natürliche Weltbegriff)、エルンスト・マッハの経験批判論(Empirio-criticism)、そしてフリードリヒ・ニーチェからも影響を受けた。[要出典] ルナチャルスキーはまたギリシャの神秘学派、特にエレウシスの秘儀に強い関心を寄せていた。ルナチャルスキーはエレウシスの秘儀を、共同の儀式が道徳観を教える手段としていかに活用できるかのモデルと見なしていた。[1]
ルナチャルスキーらは宗教という用語を、人間の個人と個人、人間と共同体、そして人間と過去および未来の社会のあいだのつながりと解した。ルナチャルスキーは、次のように記している。「偉大なる生存競争のために……人類はほぼ有機的に統合された単一体となることが必要である。機械的でも化学的でもなく……しかし、精神的、意識的に感情を結びつけること……それが要するに宗教的感動である」と書いた。[3]: 93 ルナチャルスキーは、無神論は本質的に悲観主義で人生を無意味なものにするとし、これを解決するためには意味を与える宗教の喜びに着目すべきだと論じた。無神論は宗教のように人生の意味を与えられず、いったん宗教が取り除かれたならば、人々は何かがその代わりに据え置かれるまで虚無感を抱くだろう。その代わりとして、ルナチャルスキーは人類を超越的な存在として位置づけるべきだと提案した。
ルナチャルスキーは、神を何物よりも愛せという戒律の変革を望んだ。[3]: 94
何よりも物質を愛し、神格化しなければならない。始まりも終わりもない存在であり、これまでも、そしてこれからも永遠に存在し続ける根源的因果としての身体の本質、あるいは肉体の霊魂を[愛し、神格化しなければならない]……。神とは、至高の可能性を秘めた人間性である。しかし、至高の可能性を秘めた人間性など存在しないのだ……。なればこそ、我らは人類の、私たちの可能性を愛し、それを永遠に愛するために栄光の花輪で象徴しようではないか。
ルナチャルスキーは、マルクス主義には社会主義の必然的勝利への信仰や、科学と物質的存在があらゆる人間関係を生み出すことへの信仰など、宗教的な要素があると見なした。これらの要素が、建神論の論理性を補強し得ると考えたのだ。ルナチャルスキーは、1905年の第一革命を、国家が内在する宗教的な力の表出と解釈した[3]: 94。創造されるべき宗教とは、人類の神格化による社会主義の社会的利用を崇拝するものであった。
ルナチャルスキーとその支持者たちはキリストの神性を否定したが、キリストを深く尊敬し、革命指導者にして世界初の共産主義者として再解釈した。[要出典] 新しい宗教は、進歩、人間性、そして人間の天才に向けて祈りを捧げるものであった。個人的な祈りではなく、集団による祈りが強調されたのは、共通の革命的行動を支える霊的実践に用いたいという願望のためであった。この新しい宗教は寺院や儀式、そして崇高な感情を惹起する象徴的な演劇が上演される劇場を伴うだろう。ルナチャルスキーは、演劇と象徴主義が心理的ないし社会学的な変革をもたらす重要な手段であり、圧政に対する「人間の魂の闘争」であると信じていた。[3]: 94–5
拒絶
アナトリー・ルナチャルスキーの、宗教は多くの側面を持つ複雑な事象であるという考え方は、初期ソ連の他の指導者たちの見解とは対照的であった。彼らは、宗教は単に物質的条件の産物とするマルクス主義の前提に基づき、物質的条件の変化とともに消滅すると考えていたのである。
ウラジーミル・レーニンはこの概念に激怒し、ルナチャルスキーの意見はマルクス主義を穏健な自由主義的改良主義に変質させかねず、極めて有害であると考えた。[3]: 20 レーニンは、ルナチャルスキーの考えは宗教がイデオロギー的搾取の道具であった事実を覆い隠し、反動勢力に妥協するものと信じた。[4]
1917年の十月革命におけるレーニンの勝利は、アレクサンドル・ボグダーノフを除いて、建神論が拒絶されることにつながった。[5]
レーニンは、宗教についての長年に渡る強固な見解を持っていた。
宗教は、精神的抑圧の形態のひとつであり、他人のための恒久的な過度の労働、貧困、孤立にあえぐ大衆を至るところで苦しませている。搾取階級に対する闘争における被搾取階級の無力さは、必然的に死後のより良い生活への信仰を生み出す。これと同様に、自然との戦いにおける非文明人の無力さは、神々、悪魔、奇跡などへの信仰を生み出す。生涯を労苦と貧困とともに生きる人々は、この世では従順で忍耐強くあり、天国での報いを信じて慰楽とするように宗教によって教えられている。しかし、他人の労働によって生活する者たちはこの世で慈善を行うように宗教によって教えられ、搾取者としての自己の存在すべてを正当化する非常に安っぽい方法を提案し、天国での幸福への切符を適価で売りつけるのだ。宗教は大衆のアヘンである。宗教とは一種の精神的な酒であり、資本家階級の奴隷が多少なりとも人間らしい生活を求めてこないように溺れさせるものなのである。[6]
マルクスもフォイエルバッハの「人間学宗教」を否定していた事例が、レーニンの主張を後押しした。レーニンは、共産主義的な再解釈であっても宗教との妥協を一切許さず、それが最終的にはボリシェヴィキの大義への裏切りに堕落すると感じていた。[3]: 21 ルナチャルスキー自身も革命後には無神論的な見解に屈し、後年のプロパガンダではキリストを架空の存在であり、歴史上の人物ではないとする主張に転向した。[3]: 95
ルナチャルスキーの遺産
ルナチャルスキーの思想は、マクシム・ゴーリキーやアレクサンドル・ボグダーノフなどを含む、多くの著名なボリシェヴィキによって受け継がれた。[要出典]
ルナチャルスキーは、聖書の教義を守らない聖職者を批判し、宗教をより深く理解することに依拠した別の戦略を提唱した。彼は(原理原則ではなく現実的な懸念から)節制を促すも無視され、宗教を単なる階級現象とする単純な見解は、より複雑な事象として理解するために捨て去られた。
建神論に関連する思想が、その後の数年間に渡って現れた。
1926年以降、ロシア・ソヴィエトの作家にして医師であるヴィケンチー・ヴェレサーエフは、幼児への命名、結婚式、葬儀などの重要な行事のために美しく標準化された儀式の開発を提唱した。ヴェレサーエフは、国家はすでに多くの儀式(パレードやデモなど)を持っているが、それらが「うんざりするほど才能がなく惨めな代物」だと論じたのである。[3]: 92 彼や他の多くの人々は、ソヴィエト国家の結婚登録や出生登録への官僚的な無関心と低劣な品質に失望して教会へ行くのだと示した。彼を支持した共産党員の農村教師は、農民に無神論は説かないと主張した。なぜなら、農民を無神論者にしてしまえば、宗教とともにすべてを奪い、代わりに何も与えないからだと。同じく支持するコムソモールの活動家は、妻を亡くし、無感情で、冷淡で、無関心な世俗的共産主義的儀式によって埋葬された男の事例を挙げた。男はそれに深く落胆し、涙を流しながらウオッカを1本飲み干したと述べた。レーニンは、宗教が大衆のアヘンであり、一種の精神的な酒であると主張していたが、この男は宗教の代わりに酒に頼ったのである。[3]: 92
しかしながら、ヴェレサーエフはマルクス主義の知識人たちから攻撃され、ルナチャルスキーと同様に拒絶されることになった。ヴェレサーエフは、「人生は退屈なものとなり、人間は空虚な器に成り果てる」と警告し、反対者たちは「額は突き出て、目は近眼、分厚い眼鏡をかけた猫背の人々」で、美の真価もわからず、人生に儀式を必要としないのだと述べた。[3]: 92 [7][8]
ルナチャルスキーの「建神論」の思想が堂々と復活するのは、1960年代になってからのことである。
ロシア正教会はこのまったく新しい宗教を、キリストが予言した偽預言者の範疇に入れ、サタニズムと関連付けた。ソヴィエトの作家であるラスコヴァヤは、ルナチャルスキーの思想とディートリヒ・ボンヘッファーやジョン・A・T・ロビンソンなど、西洋の神学者による「神の死」の概念との類似性を指摘した。[3]: 95
建神論の復活
1962年2月、モスクワで「全ソヴィエト同盟科学宣伝会議」が開催された。ここで議論された中に、「信心深い民衆に共産主義の道徳と倫理の原則を教育し、宗教的な慣習や伝統は信者の美的、感情的要求を満たす祝祭や儀式に代替されるべきである」という提案があった。[3]: 91 [9][10][11][12]
1965年、ニキータ・フルシチョフによる宗教への攻撃が何の効果ももたらさないように見えた頃、現代の労働者たちを賛美し、約束された未来の共産主義社会と民衆のあいだに神秘的な結びつきを作り出す疑似宗教的な儀式を制定すべきという提案が、ソヴィエトの報道に現れ始めた。[3]: 95 これらの儀式や礼拝は、共産主義社会が約束するユートピア的な未来に向けられる。共産主義を礼賛する行事や祝日が制定される。象徴的で芸術的な装飾を施した特別な神殿が建てられるとともに、そこではオラトリオ(聖譚曲)が作曲および演奏され、共産主義こそが人類史における最大の功績として賛美されるのだ。[3]: 95
この新しい建神論の支持者たちは、ルナチャルスキーほど極端な冒険主義には走らず、以前のレーニンの非難に公然と挑戦することを避けた。理論的検討の末に提言した内容のほとんどは実現に至らなかったが、特定の公式行事に特別な儀式が導入されるきっかけとなった。例えば、1966年には聖ヨハネの日に関連する儀式を基礎とした「全ソ連農業労働組合の日」が設けられた。新しい儀式は、社会主義のもとでの社会的、政治的、イデオロギー的な団結を民衆に呼びかけるためのものであった。[3]: 96 ウクライナでは「鎌と鎚の祝日」と呼ばれ、次のように説明されている。
12月上旬の朝、トラクターの運転手たちが[周辺地域から]ジトーミル市に集まってくる。彼らはジトーミル市の入口で同市の工場の代表者に出迎えられ、社会主義競争の進捗状況を共有し、工場へと招かれる。そこで農民たちと労働者たちとが、事務的な議論と自己批判に従事するのだ。その後は、レーニン広場で農業技術の式典となる。楽団の演奏が厳かに流れる中、優秀な労働者と農民が賞金と賞状を受け取る。それから、彼らはみな市内の劇場において、来年のノルマ達成を公に宣誓するのだ。[3]: 96[13]
1960年代には、16歳の誕生日にパスポートが交付されることを祝う特別な儀式が考案された。また、これとは別に、労働者階級や農民階級に合流するための儀礼も制定された。先んじること1950年代の後半には、国家は教会に対抗するため、より儀式的な結婚式、赤子の命名式、葬儀を行うようになっていた。
西ウクライナでは、フルシチョフ失脚後の時代に過激派の無神論者のクラブが現れ、教会関連に取って代わる新しい世俗的な儀式を作り出した。[3]: 115
教会が排除された地域では異教信仰が再興し、建神論者や宗教必要論者の論拠に利用されることとなった。[要出典]
ソ連当局のプロパガンダは、これらの儀式が教会から民衆を引き離すことに大いなる成功を収めたと宣伝していたが、これは真実ではないかもしれない。教会での結婚式や洗礼式の減少を示す当局の統計は、改良された世俗的儀式の導入後の減少の実数というより、多くの人々が司祭に秘密裏に依頼するようになったことを反映しているとも捉えられよう。[3]
参考文献
- ^ a b c Lunacharsky, Anatoly. 1908. Religion and Socialism. Moscow.
- ^ Tumarkin, Nina (1981). "Religion, Bolshevism, and the Origins of the Lenin Cult". Russian Review. 40 (1): 35–46. doi:10.2307/128733. JSTOR 128733.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Pospielovsky, Dimitry V. 1987. A History of Marxist-Leninist Atheism and Soviet Anti-Religious Policies, A History of Soviet Atheism in Theory, and Practice, and the Believer, Vol 1. New York: St Martin's Press.
- ^ Laskovaia, Bogoiskatel'stvo i bogostroitel'stvo prezhde i teper. Moscow: Moskovskii rabochii, 1976.
- ^ Valentinov, Nikolaĭ. 1953. Vstrechi's Leninym. NY: Chekhov Publishing House. pp. 283–304.
- ^ Lenin, Vladimir. 1905 December 3. "Socialism and Religion." Novaya Zhizn 28.
- ^ Veresaev, V. 1926 November. "Ob obriadakh." Krasnaia nov (11):174–85.
- ^ Veresaev, V. 1926 January. "Khudozhestvennomu oformleniiu byta'" and "Ob briadakh starykh i novykh." Krasnaia nov (1).
- ^ Ushinin, D. [pseudonym]. 1966. "Novye veianiia v ateisticheskoi propagande SSSR." Grani 60. p. 206
- ^ Powell. Anti-religious. p. 69 et passim; and Powell. 1974 August 16. "Novye sovetskie obriady i ritualy." Radio Liberty Research Bulletin 258(74) (Russian ed.). Munich.
- ^ Chebotar', G. 1970. "Novye obriady v drevnem Polotske." Nauvka i religiia (7):33–34.
- ^ Lobacheva, N. P. 1972. "O protsesse formirovaniia novoi semeinoi obriadnosti." Sovetskaia ethnografiia (1):3–13.
- ^ Kampars, P. P. 1967. "Sovetskaia grazhdanskaia obriadnost." M. Mysl'. passim.
私家訳者補遺
今回の翻訳における固有名称は、可能な限り「Wikipedia日本語版に単独記事が存在するものは、その名称に沿う」「存在しないものは何とかする」の方針で行いました。
上記の内容どおり、建神論はエベール派の無神論に立脚した「理性の祭典」に源流を求められるものの、その性格が理神論に基礎を置くロベスピエール派の「最高存在の祭典」に近くなっていったことは、非常に興味深い事象であると考えられます。
そして、この建神論が育つ土壌となった「フペリョート(前進)派」について、今なお未邦訳の状態です。次はこちらを翻訳するとともに、「無神論と理神論」「建神論の無神論性と理神論性」について、オーギュスト・コントやエルンスト・マッハを学びながら考えることができれば……と思案しています。
特殊な側面として、ルナチャルスキーの引用には多分にキリスト教の内容が含まれており、例えば「栄光の花輪」は"a garland of glory"の翻訳として当てました。これは新約聖書における『コリント人への第一の手紙 9章25節』、オリンピックの競技勝利者に与えられるオリーブの冠について、不滅の栄光を称えるはずのそれが数日後に"perishable crown(朽ちゆく冠)"であることを、使徒パウロが指摘した内容となります。
Now everyone who competes exercises self-control in everything. They do it to receive a perishable crown, but we an imperishable crown.
1 Corinthians 9:25 - BibleGateway
さらに、これに対応する記述として、(高等批評での賛否が分かれるものの、正教会ではすべて彼を受け継ぐ源流に位置づけられる)使徒ペトロが関わる『ペトロの手紙一 5章4節』に、以下のような一節があります。
and the Chief Shepherd having appeared, you will receive the unfading garland of glory.
「the unfading garland of glory(朽ちることなき/不朽なりし栄光の花輪)」と、鮮烈な書きようです。ともあれ、キリスト教の"Orthodox(正統派)"であるところの"Orthodox(正教会)"は、ロシア帝国において教育の根幹を担いましたから、ルナチャルスキーがこうした引用をするのは自然ではあります。
もっとも、ルナチャルスキーの義兄弟であるアレクサンドル・ボグダーノフ(ルナチャルスキーはボグダーノフの妹と結婚しています)も大きな勢力を持ちながら、党争と攻撃性では比肩する者のないレーニンによって、「無神論者への転向」を余儀なくされていきます。とはいえ、ボグダーノフの場合は、最終的に特殊な方向へ突き進んだことで、ボリシェヴィキ的に見ても奇妙で、それでも非科学的と断罪しきれるものでもない立ち位置に収まったと言えるでしょうか。
ただし、ボグダーノフとルナチャルスキー、さらにはアレクセイ・ガースチェフの管理手法を加えた、フペリョート派を代表する思想家たちの「最も科学的かつ最も社会主義的な手法」が"隣国"たる日本へと浸透。戦後日本の企業統治や生産管理の手法に活かされたという学説があるというのは、まことに奇ッ怪ながらも、深く知りたくなるところではありますね。