【Wikipedia私家訳】「フペリョート(Вперёд)」
《翻訳者》
真里谷
《元記事》
英語版Wikipedia「Vpered」
https://en.wikipedia.org/wiki/Vpered
[CC BY-SA 4.0 DEED]
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja
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ジダーノフとボグダーノフを間違えるようなバージョンが、突然にクラーシンが湧いて出てくるようなバージョンが、1910年から1912年までの打ち切りエンドのような省略が、私には耐え難いものでした。
フペリョート
フペリョート(Вперёд)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フペリョート(ロシア語: Вперёд)は、ロシア社会民主労働党(Russian Social Democratic Labour Party / RSDLP)内の派閥のひとつであった。日本語では「前進」を意味する。フペリョートはボリシェヴィキから派生したものの、ウラジーミル・レーニンには批判的であった。このグループは1909年12月にアレクサンドル・ボグダーノフによって結成され、1912年まで活動した。[1] フペリョートの著名なメンバーには、マクシム・ゴーリキー、アナトリー・ルナチャルスキー、ミハイル・ポクロフスキー、ヴィルジル・シャンツェル、グリゴリー・アレクシンスキー、スタニスラフ・ヴォルスキ、マルティン・リャドフがいた。
ボリシェヴィズムの分裂
フペリョートは、反革命の政治的気運の高まりとともに、政治権力や正統性、活動資金を巡るロシア社会民主労働党内で繰り広げられた政争の中で発展した。[2][3]:8
哲学的には、ボグダーノフとその支持者たちは、レーニンの『なにをなすべきか?(Что делать?)』に倣って、知識人こそが党内で強い役割を果たすことを想定していた。ボグターノフたちは、労働者が党の指導部でより大きく、ふさわしい役割を果たせるようにために、党の知識人が社会主義教育を体系化する方法を提唱した。さもなければ、多くの知識人が党を去り、残った者たちが新しい党指導部を形成することになるとも。一方で、レーニンはこの活動から距離を置いた。[4]:204
ボグターノフが声明文をボリシェヴィキの機関誌『プロレタリー(Пролетарий)』の編集委員会に対して提出した時から、フペリョートの歴史は始まった。[5] これに対し、1908年6月末の編集委員会で、レーニンはボグダーノフを同委員会から排除することに成功した(ただし、ボリシェヴィキからの除名までには至らなかった)。[2] そして、1909年6月には、レーニンがパリで拡大編集委員会を招集する。この場において、ボグダーノフは労働者階級の内部における「完全なる社会主義の宣伝戦の拡大と深化」という「実習」を問題提起したのである。
- 『プロレタリー』の編集者たちは、労働者階級の知的発達に十分に取り組めていない。
- 専制政治に対する民衆の武装闘争への「理論的かつ歴史的な」推敲が欠如していることは、「自覚的指導者」が労働者組織に不在であることを意味し、知識人が労働者を「自覚的指導者」として教育する必要がある。
- 労働者階級のための大学(プロレタリア大学)を組織することによって、これらの課題を解決する。
ボグダーノフは、労働者階級があらゆる闘争の形態において「自覚的指導者」として行動できる、「影響力を持った労働者の中核」の育成を望んだ。[4]:199
この提案が一蹴された時点で、ボグダーノフはパリを離れた。[4]:197 かくして、1909年7月。ボグターノフは、事の顛末を報告書として作成および発表し、フペリョートとしての綱領を明確にした。それは、レーニンとその仲間たちが、来たるべき民主主義革命における労働者階級の覇権的役割という枢要、ならびに「革命的マルクス主義」から根本的に逸脱している点を詳述するものだった。[6] ボグダーノフは、『プロレタリー』が1年半ものあいだ1冊の小冊子さえも発行できず、なお言えば、党が社会主義の宣伝戦そのものを放棄していることを批判したのである。この考えに、かつて「ロシア全土で最も影響力のあるレーニン主義者」とさえ呼ばれた、有力党員のレオニード・クラーシンが賛意を示した。
1905年のロシア第一革命の失敗は、社会民主運動において、ブルジョア民主主義とその選出議員たちが台頭する帝国下院(ドゥーマ)時代を生み出した。ボグダーノフとその同志たちは、レーニンとその一味が「絶対議会主義」に固執してこれを容認したことを非難した。[3]:7 ボグダーノフを含むオツォヴィストたち(レーニンが党の解体につながることを恐れた地方分権化の主張者たち)が革命的マルクス主義の再主張を訴えていたことは、あるいは団結できる点となりえたが、帝国下院ならびにすべての国家機関からロシア社会民主労働党員を召還するのは非現実的であるというのがボグダーノフの考えでもあった。[4]:197
プロレタリア大学(カプリ党学校/労働者のための第一高等社会民主宣伝扇動戦学校)
フペリョートは、1909年8月から12月にかけて、イタリア王国のカプリ島で実験的なプロレタリア大学を運営した(そのために、亡命時代のマクシム・ゴーリキーの自宅が使われた)。[2] また、1910年11月から1911年3月まで、別の党学校が同じくイタリア王国のボローニャで運営された。レーニンは、フペリョートがこの事業に8万ルーブルも費やしており、ボグダーノフやルナチャルスキーを中心としたこの分派は党から除名すべきだと主張した。
フペリョートの勝利・停滞・消滅
ボグダーノフとルナチャルスキーが党派政治に幻滅し、教育とプロレタリア文化に焦点を当てようとしているなか、アレクシンスキーはフペリョートが国家転覆の手段として「非合法的な」伝統を永続させようとしているとみなし、この分派に加わる。さらに、ポクロフスキーやヴャチェスラフ・メンジンスキーが加入したことで、この再定義された派閥は『プロレタリー』の編集委員会を掌握。[7] 1910年のロシア社会民主労働党中央委員会パリ合同総会において、レーニンとボリシェヴィキの牙城であった『プロレタリー』の廃刊が決定した。
また、かつてレーニン、ボグダーノフ、クラーシンのトロイカ体制で、ロシア帝国内に100を超える数を設置し、革命宣伝、文書輸送、資金分配の拠点となっていたボリシェヴィキセンターの閉鎖も決議される(センター自体が党の規約に違反するものであった)。これにより、革命家ニコライ・シュミットが遺贈し、ボリシェヴィキセンターが管理していた約28万ルーブルにもなる「シュミットの遺産」も奪われることとなった。ボリシェヴィキが完全な敗北を喫した総会の終了後、レーニンはゴーリキーに次のような手紙を書いている。[10]
3週間の大騒ぎで、すべての神経を使い果たした。10万匹の悪魔どもが群がってくる!
しかしながら、フペリョートはここで停滞した。ロシア社会民主労働党は、当時ウィーンに拠点を置き、党内闘争とは中立の姿勢を取っていた『プラヴダ』を公式機関誌に設定したが、1908年から同紙の編集に招聘されていたレフ・トロツキーを始めとして、多くのボリシェヴィキが編集委員会のメンバーに名を連ねていた。(ただし、レーニンが1912年にサンクトペテルブルクで同名紙『プラヴダ(Правда)』を発行し始めたことで党内闘争のひとつとなり、トロツキーが発行していたそれはやがて『ウィーン・プラヴダ(Венская Правда)』の名前を冠されることになる)
1911年の春には、ボグダーノフは政治活動から遠ざかってしまう。同年7月には第二次モロッコ事件(アガディール事件)、9月には伊土戦争が勃発。国際的な緊張が高まるなかで、レーニンは精力的に論文を書いては『プラヴダ』に掲載した。また、レーニンらボリシェヴィキがフペリョートの方針の一部を取り入れて、フランスのロンジュモーにロシア社会民主労働党学校を設立したこと、フペリョートの思想的先鋭性が現実に適合しなかったこともあり、1912年には完全に勢いを失った。[4]:208 同年1月、ロシア社会民主労働党の総会がプラハで開催されるころには、セルゴ・オルジョニキーゼの手腕もあってボリシェヴィキ主導での大会開催を実現。メンシェヴィキの主要メンバーの多くが招待状すら受け取れず、ウィーンにて対抗会議を開くこととなった。ロシア社会民主労働党は、この年をもって事実上の分裂に至るが、フペリョートはもはや政治勢力として関わることはなかった。
明らかなこととして、二月革命の直後から、メンシェヴィキの機関誌として『フペリョート(前進)』が発行され始めた。1917年の6月から7月にかけて、メジェラヨンツィ(ボリシェヴィキとメンシェヴィキの橋渡しを試みた派閥にして地下組織)の指導者であるイリヤ・ユレネフが、1913年に結成されたこの地下組織の歴史を『党の団結がための闘争』三部作として発表している。[8] メンシェヴィキの機関誌『フペリョート(Вперёд)』のように、1918年前半まではゴーリキーの『新生活(Новая жизнь)』や、社会革命党(エス・エル)の『人民の大義(Дело народа)』などの出版物が容認されていた(『人民の大義』はボリシェヴィキによる発禁処分後もモスクワや白軍占領下のサマーラで発行されたが、1919年にはついに姿を消した)[9]。
参考資料
1. ^ Marot J. E. "Alexander Bogdanov, Vpered, and the Role of the Intellectual in the Workers' Movement." Russian Review July 1990 49(3) p241 - 264 Blackwell. JSTOR 130152.
2. ^ a b c Read C. "Lenin: a revolutionary life." Routledge, 2013 ISBN 1134624719, 9781134624713.
3. ^ a b Sochor Z. A. "Revolution and Culture: The Bogdanov-Lenin Controversy." Cornell University Press 1988 p4. ISBN 0801420881, 9780801420887.
4. ^ a b c d e Marot J. E. "The October Revolution in Prospect and Retrospect: Interventions in Russian and Soviet History." BRILL, 2012 ISBN 9004229876, 9789004229877.
5. ^ Day R. B. and Gaido J. "Witnesses to Permanent Revolution: The Documentary Record." Volume 21 of Historical Materialism Book Series. BRILL 2009 p568 ISBN 9004167706, 9789004167704.
6. ^ Waller M. "Democratic Centralism: An Historical Commentary." Manchester University Press, 1981 p28 ISBN 0719008026, 9780719008023.
7. ^ Biggart J. "Alexander Bogdanov, Left-Bolshevism and the Proletkult 1904 - 1932." University of East Anglia 1989 p150.
8. ^ Thatcher, Ian D. (March 1994). "Trotsky and Bor'ba". The Historical Journal. 37 (1): 113–125. doi:10.1017/s0018246x00014722. ISSN 0018-246X.
9. ^ Getzler, Israel (2003) [1967)]. Martov: A Political Biography of a Russian Social Democrat. Cambridge University Press.
10. ^ Январский пленум ЦК РСДРП. Дата обращения: 28 февраля 2015. Архивировано 27 марта 2014 года.
私家訳・追記補遺
私は、他者の能力に文句をつけたくないのです。でも、このテキストには文句をつけます。つまり、それは英語版の不備を是正しきれない、私自身への文句と同一でもあるわけです。
「CC BY-SA 4.0 DEED」に準拠する範囲で、どうにかしました。Referencesも、それに基づいて追加しています。それでも、不十分です。
レーニンは、1910年の総会で打ち負かされた後も、精力的に政治活動としての論文発表を続けています。とかくこの旺盛な執筆意欲と高い攻撃性は、1910年から1912年にかけて激変する世界情勢に、最も良い形で適合することになります。
1911年まで、ボグダーノフやルナチャルスキーはボローニャでの教育活動などを行っていました。
ですが、それは「社会的な革命の気運」「列強同士の戦争の気配」「実際に起きた伊土戦争」「それに伴って結成されたバルカン同盟と、2度に渡るバルカン戦争」……厳然として存在している帝国と、"暴力革命"を前提にしている勢力にあって、レーニンが再び勢いを取り戻すのは自明だったのかもしれません。
また、ボグダーノフもそうした党内闘争で疲弊したという見方も散見されましたが、私が明確な参考文献を原文で確認していないので、これは加えませんでした。
良くも悪くも、フペリョートの多くは学究肌であり、ゆえにこそルナチャルスキーは初代人民委員に選ばれたわけですし、ボグダーノフもオカルティズムに突き進みながらもその知性を評価されていました。他派所属が致命的になってきた時世にあって、メンジンスキーにいたっては「革命の剣」たるフェリックス・ジェルジンスキーの後継者として、OGPUのトップにまで上り詰めています。
名称について。「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」はそれ自体が派閥の語を内包しているものの、フペリョートについては「前進」の意味しか持たないため、「フペリョート派」のほうが厳密には正しいのかもしれません。ただ、メンシェヴィキ発行の「フペリョート」くらいしか混同するものもなく、ロシア社会民主労働党内にはボリシェヴィキやメンシェヴィキ以外にも多数の派閥が存在したことを鑑み、単語そのままであることを堅持しました。
それに、日本の中核派(中央派/革命的共産主義者同盟全国委員会)が所有する任意団体「前進社」、同団体が発行する機関紙『前進』と重複してしまうのも理由のひとつですね。
もっとも、それを言っちゃったら、「"revolutionary Marxism"を『革命的マルクス主義』で訳したの、すっごい革マル派と被らない?」ってことになりますが。革マル派(革共同)は確かに「革命的マルクス主義派」ながら、正式名称が「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」なのでセーフだと思います。英訳正式名称も「Japan Revolutionary Communist League (Revolutionary Marxist faction)」ですから、「revolutionary Marxism」と違うのでセーフ。マイルールでセーフ!
最後のリンクだけ、Wikipediaではなくピクシブ百科事典にすると、なんだか興奮しました。賽は投げられたし、レファレンスも投げられた。