【自分の意味に悩む時】VTuber、ひいては表現者の個性とは何か
個性。ああ、実に怖い響きです。
考えてもみてください。「多様化」の時代、ならびに「個性」の時代と謳われる昨今、"誰かと同じであってはいけない"という強迫観念さえも生まれつつあるようではありませんか。
それは「人間は誰もが平等で公平に過ごせる」という考えがうたかたの夢想に終わり……それに対するカウンターとして、大きく「個人」に振り切った結果のようにすら思えます。
ただ、個々のパーソナリティが爆発的に広がるのは、まさしく百花繚乱にして百家争鳴。実に喜ばしいことじゃござんせんか。
とは言うものの。悩みってのはついて回るものでございますね。だって、人気漫画『僕のヒーローアカデミア』じゃござんせんが、否が応でもこの「個性の差」で何かしらの良し悪しがつけられるってことなんですから。
VTuberさんが独自性の確立にあたって悩みとする「個性」の問題
さて、「あおぎり高校」にご所属のVTuber「我部りえる」さんの配信。こちらを拝見したのが、今回の記事の契機となったわけですわいな。
いつの時代にも、「個」が輝くためには人気が必要です。その中核を成すのが「個性」というモンですが、これが結構しんどいわけで。
とりわけ、あおぎり高校さんは「突き抜けた」存在がいらっしゃいますから、確かに悩みも募るだろうと感じる配信でした。
例えば、VTuberさんなら何を持って個性とするか。何をもって競合との差別化を図るか。「身体」「性格」「声」「歌」「トークスキル」「ゲームスキル」「特殊な知識」……今まさに成熟期にある業界だからこそ、そのカテゴリも猛烈な勢いで広がっています。
ただ、図抜けているだけじゃあ、突破はできない。怖い話でございますよ。小説や漫画にしてもそうですが、「壊れているだけ」「尖りまくっているだけ」ではいけない。だからこそ、あおぎり高校さんが掲げているキャッチフレーズの「おもしろければ、なんでもあり」が重要になってくるのでしょう。
面白い!
楽しい!
何度でも見たい!
すべての原動力です。見る側にとっても、時としてパフォーマンスをするVTuberの皆様にとっても。
個人VTuberでも企業所属のVTuberでも同じこと
個性の争いは、「孤独」な戦いをも意味します。これは個人VTuberであろうと企業VTuberであろうと、まったく変わりません。
無論、企業VTuberのほうが手厚いサポートはありますが、反面多くの義務やプレッシャーを背負っているものです。然るに、周囲が思っているほど自由ではなく、マージンもきっちり支払わなくてはならず……人気になればなるほど、"おどろおどろしい"コメントも寄ってくるでしょう。
ディズニーランドなどのアミューズメントパークなら、それを注意するためのシステムができあがっています。すなわち、警備員、あるいはその役として適したマスコットが注意をするわけです。
かくて、キャストの身の保全が守られるわけですが、VTuberという「ダイレクトな双方向性」が魅力のひとつの稼業ともなると、あらゆる感情をもろに受け止める場面が出てきます。何なら、「相手の善意がむしろ重荷になる瞬間」もようよう訪れるやもしれません。
そうして、悩むわけです。自分の選ぶべき個性とはこれで良かったのか。そもそも、自分の個性とは何なのか。
自分は、この場に必要なのか?
ネガティヴな感情や変化していく自分さえも個性として捉えてみる
さながら禅問答のようにぐるぐると、出口のない問いが巡り廻る……。解決法のひとつとしては、配信においては決して好かれる類のものではない「ネガティヴな感情」、さらに「活動方針の変化」について、前向きに捉えていくというものが考えられます。
ネガティヴ自体が後ろ向きなのに、前向きというのもいささか「二律背反」の気配がしてしまうかもしれませんが。気持ちは沈みつつも、人生まで沈んだらさあ大変。いよいよ活動を続けることすらイヤになっちまうでしょう。そりゃあ、もったいないってもんです。
さればとて、VTuberの魅力のひとつである「物語性」、いわゆるナラティヴを前面に出す戦略は、十分に効果的です。ユーザーのなかには不変性を求める人もいるかもしれませんが、自分がそれを望まないのであれば、自ずと去っていくでしょう。
動物も植物も、時の移ろいとともにその形状を変えるものです。どうしてバーチャルなYouTuberだけが何も変わってはいけない道理がありますか?
なんもありゃしません。何も。完全に。在りはしないのです。
失態もあり、失敗もあり、なんとも自分が情けない。その姿をさらけ出すこと。あるいはそれこそが、表現者たりうる資質なのかもしれません。誠心が性別を問わぬのは、人類の歴史が証明しています。
もちろん、「宋襄の仁」のような故事もありますが、ここではそれは当てはまりません。時代は変わりました。目指しているのは徳治の王ではありません。あらゆる舞台で輝く表現者なのですから。
【結論】完璧でなくていい、それは有り得ないものゆえに
かつて、携帯ゲームは「ポチポチゲー」などと呼ばれ、家庭用ゲームとは一線を画す存在とされていました。
しかし、考えてもみてください。元は家庭用ゲームとて、アーケードゲームの亜流として生まれたものだったはずです。
そうして、今やスマートフォンの高性能化もあいまって、ソーシャルゲームはゲーム業界を牽引するひとつの在り方となりました。というより、スマートフォンがミニPCと化した現状、もはや遊戯できる端末のひとつであり、あらゆる表現が可能になったと申し上げるべきでしょうか。
これは表現者の流れとしても同じで、かつて隆盛を極めたリアルなYouTuberの皆さんも、その多くが決して主流とは言えない状態になっていきました。
それはVTuberも近似した状況があり、2018年ごろに活動していた「大物」の何人が、今なお輝き続けられているでしょうか。
業界の黎明期から成熟期へ移行するに際しての大きな苦しみ、悲しみ、悩み……数多の出来事があったことを、多くの人が知っていることでしょう。やがて「動画」から「配信」へ。より「生活」に根ざした存在となっていったことは、特筆すべきものだと思います。
言うなれば、「VTuberとはそれそのものが個性」なわけですが、今さらそれで終わらせるのは"おためごかし"の批判を免れますまい。
ゆえにこそ、「個性とは何か」「そこにプラスアルファして生き残るにはどうすればいいのか」が、多くの表現者にとっての悩みとして屹立しています。ただ、その悩みであるということ自体が、個性のひとつとして強調される要素なのです。
いかなる存在にも悩みがあります。およそ言葉こそ通じないものの、人間以外の動植物にも諸々の懊悩があるでしょう。名曲『翼をください』には「悲しみのない 自由な空へ」というフレーズがありますが、そこにもまた熾烈な生存のための闘争が待っているわけです。
ただ、そうした悩みを深堀りし、「感情」でパッショネートに表現するか、それとも「理論」でロジカルに表現するか。それを自分のリスナー、ファンたちとどのように共有していくか。結果として、相互理解や全体の成長へつなげられるか否か。
VTuberは、まことに不思議なことに、バーチャルでありながらともに生命を感じられる不思議な立ち位置にあるゆえに、現在の隆盛につながっている一面があるのではないか……と、私は考えています。
なればこそ、真摯であること。誠実であること。その心情を吐露すること。これらが法的にも私的にも問題につながらず、互いの信頼関係の構築と成長を促す、最も良い未来にリンクしていくでしょう。
その意味において、ニュートラルでトラディショナルな、個人事業主としての良好な振る舞い。どこか古めかしさすら感じさせる「地道さ」が、真の個性を育む土台たりえるのであろうと思います。